博多駅から東京行きの新幹線に乗った薫は、車窓の流れていく景色を眺めていた。鉄が今日退院するという報せを受けたのだ。薫と鉄はいまでは話をしてもすぐ皮肉の応酬になってしまうような関係だったが、それでも交友は二十年近くも続いていた。薫は鉄のこと…

東京都内の通りをおぼつかなく歩いていた老人は死期を予感していた。 若かった頃、戦場へ行き生きのびて郷里の関東にもどると、唯一の家族だった母親は住んでいた家とともに焼死していた。以来、老人は世を捨て、復讐するかのように偸盗(ちゅうとう)として…

その特別講義は『エクスタシーの実践』という題だった。大学構内の数カ所にチラシが貼りだされた。講師は中山一郎。 聴講生はまばらだった。時間になり中山老人は教壇にのぼると、「それでは講義を始めます」と一礼し、その場にあぐらをかいて座りこんだ。顔…

薫が東京大学でエクスタシーになっていたとき、その近くにいた人物がふたりいた。ひとりは中山老人だ。 恍惚(こうこつ)状態になり、常に決定的瞬間にいるかのような独語を続け、キャンパス内を歩いてゆく薫の後を行きながら、中山老人はしばしば薫が発した…

日清日露の戦争に勝って以来、世相は熱狂していたが、男は佐賀平野のだだっ広い干拓地(かんたくち)に立って、このあたりの西瓜(スイカ)は美味そうじゃ……と暢気(のんき)なことを考えたりもした。坊主あたまではあったが、頭陀袋(ずだぶくろ)を持った…

現代まで続くという有楽会の目的は、中国思想の始祖(しそ)である孔丘の血統による、極東での周王朝の再興と護持(ごじ)……すなわち天皇制下の日本。亀山博士の戦時中の呟きが意味するのはそういうことだが、この真偽は薫が知るところではなく、シナリオを…

薫の二度目のエクスタシーから数年後、鉄は松沢病院に入院した。それは薫のあたまの状態が落ちついてきたことと表裏をなしているかのようだった。鉄にとってはじめての精神科への入院だった。 疲れをとるためしばらく休養するように、と医師は鉄に言った。薫…

IV

賢治は薫の祖父母の家にいた。そこには数人の黒いスーツを着た男たち、浮浪者然とした薄汚れた男、薫の祖母、そしてまだ少年の薫がいた。 祖母は下をむき、男たちは厳しい眼で薫をにらむ。薫は泣いていた。賢治は部屋の入口に立ち、ただ黙ってそれを見ている…

III

薫の大叔父は夢のなかで薫を犯した。そのような呪術的行為が果たして可能なのかはわからない。 大学を退学してから祖母の家を訪ねたとき(祖父はもう他界していた)、薫は古いアルバムにあった曾祖父母の写真を見た。田畑を背景に写っている曾祖母とならんだ…

II

中山老人は東京都内の平凡なワンルームアパートの一室で眼を覚ました。いつも部屋の掃除などをやってくれている、お手伝いのお婆さんはまだ来ていない。布団に横になったまま、中山老人はぼんやり亀山博士のことを思いかえしていた。 年若かった中山老人が大…

その日、薫はいつものように午前十一時過ぎに眼を覚ますと、遅い朝食をとるため一階の居間に降りて行った。児童養護施設で働いている母親はもう仕事に出かけていた。テーブルに置かれているトーストや目玉焼き。薫はそれらを無造作に口に運んだ。冷蔵庫から…

10

薫は統合失調症と診断されている。中山老人によるという憑依のときの自動的な語りも、統合失調症の症状である独語ととらえることはできる。 思考を重ねた結果、薫には自らの状態は日常と意志のずれだという確信があった。しかし意志というのは、一体どこから…

「丘(きゅう)の遺志はここまで堕ちたか……」 亀山博士は帝国大学でインド哲学を専攻し博士号を得たあと、三十数回におよぶ癲狂院(てんきょういん)への入退院をくりかえした。 薫に憑依した中山老人の話によれば、亀山博士の風貌(ふうぼう)は豊かな白鬚…

「忘れてるんだよ」 これは薫が路上で倒れ救急車で病院に運ばれ、寝かせられていたベッドの上で叫んでいたとき、薫を取り押さえていた看護師の誰かが言った言葉だ。 神だありと前後して、薫のあたまに湧いてくる記憶。さながら夢と現実の境(さかい)の出来…

二度目のエクスタシーのとき、薫は中山一郎(なかやまいちろう)という老人を名乗った。一度目は神だった。中山老人は独特の講談めいた口調で、有楽会について語り始めた。自身は大学の哲学科の名誉教授だと言った。 中山老人は有楽会の成立と目的、そしてみ…

強姦の記憶より前、幼い薫が母方の祖父母の家に行ったとき、刑務官だった祖父はいつものように薫をスクーターに乗せ、外へ遊びに出た。そのスクーターを運転していた祖父を呼びとめたのが連山賢治(れんざんけんじ)だ。賢治はかつて徒刑囚(とけいしゅう)…

はじめに浮かびあがってきたのは強姦の記憶だ。薫が子どもの頃、家族と母方の祖父母の家に行ったとき、大叔父、祖父の弟に犯された。聡(さと)かった薫が皆の前で大叔父を言い負かしたからだ。ただその夜、家族も一緒に寝ていた部屋のなかで、そうしたこと…

薫はゲームデザイナー志望だった。ノートに書かれている有楽会(うらくかい)というのは、薫が友人の鉄(てつ)とともにつくろうとしていたゲーム、『函(はこ)のなかの少女』に登場する組織の名前だ。有楽会は明治維新後つくられた宗教団体から派生したと…

最初のエクスタシーから数カ月後、大学を休学していた薫は沖縄宮古島のユタのもとを訪れている。ユタとは沖縄などの民間の巫者(シャーマン)のことだ。ユタは薫に「神だあり」だと言った。神だありとは巫者が成巫(せいふ)するときに通過する巫病(ふびょ…

薫は童貞だという。ただ多くの「あたまをやられた」人たちと同じように、彼の記憶も錯綜(さくそう)している。 薫は最初の大学退学から、二十回以上精神科に入院した。退学後、佐賀の実家にもどり、ひどく考えこむようになり、ある日風呂に入っていると「世…

河瀬のノートにはさまれていた泉薫の(正確には泉薫のモデルとなった男の)履歴書には、彼の写真が貼られている。それはおそらく泉薫本人から河瀬がもらい受けたものだろう。度の強い眼鏡をかけた面長のその顔は、どこか神経質そうにも見えた。 薫は佐賀の高…

はじめに

私が河瀬由子を知ったのは、今から数年前のことだ。その頃河瀬はエイトソフトという創作サークルに参加し、アドベンチャーゲームのシナリオを書く予定だった。しかしサークル主宰者の健康の悪化などにより、その話を構想から先に進めることができないでいた…

大和徒夢物語(やまとあだゆめものがたり)

卍 兄弟へ