IV

 賢治は薫の祖父母の家にいた。そこには数人の黒いスーツを着た男たち、浮浪者然とした薄汚れた男、薫の祖母、そしてまだ少年の薫がいた。
 祖母は下をむき、男たちは厳しい眼で薫をにらむ。薫は泣いていた。賢治は部屋の入口に立ち、ただ黙ってそれを見ていることしかできない。
 黒いスーツの男たちは、その身体つきのよさや雰囲気から考えると、役人かなにかのようだ。祖母は時折、「悪かことばしたらいかんよ……」とだけくりかえす。
 泣いていた薫は顔を上げ賢治を見た。その泣きはらした顔は賢治に助けを求めていた。かつて薫と交わした友達の約束が賢治のあたまをよぎる。賢治はこんな小さな子どもの生に慄然としながら、眼をそらした。

III

 果たしてそんなことが可能なのかどうか、薫の祖父の弟、つまり大叔父は、薫の夢のなかで薫を犯した。そのような呪術的行為を大叔父が働けたのか、ということは不明だが、大学を退学してから祖母の家を訪ねたとき(祖父はもう他界していた)、薫は古いアルバムにあった曾祖父母の写真を見た。
 広い田畑を背景にして写っている曾祖母とならんだ曾祖父の姿を見たとき、薫はその初老の男にどこかしら自分と同じものを感じていた。そのとき薫はすでに精神科へ通院していた。
 薫の記憶の前後ははっきりしないが、おそらく宮古島に行ったのもその頃だったのだろう。薫は祖母に神だありについて訊いてみたが、「あっちの言葉やろ?」と言って、意味は知らなかった。神だありという言葉自体は、薫は本などで読み宮古島に行く前から知っていた。
 最初のエクスタシーになった後にも、薫は祖母の家に行ったが、「神さんにとりつかれた」とどこか自嘲的に告げると、祖母はそれをムキになって否定しようとした。「昔はようあったとやろ?」と言っても、祖母のような老人には似つかわしくない、どこか神学めいた言葉をもらして薫を説得しようとした。
「神は、こう、世界ば……あらしむっと……」

II

 中山老人は東京都内の平凡なワンルームアパートの一室で眼を覚ました。いつも部屋の掃除などをやってくれている、お手伝いのお婆さんはまだ来ていない。布団に横になったまま、中山老人はぼんやり亀山博士のことを思いかえしていた。
 年若かった中山老人が大学の哲学科を出て、精神病院への入退院をくりかえしていた頃、中山老人は亀山博士に私淑していた。亀山博士の前で中山老人は考えたことを語るのだが、それは亀山博士の「まったく!」の一言で否定され続けた。
 そうして精神病院を行き来し、その最後の入退院の後、中山老人は東京中を歩き回ったすえ、ひとつの思考にたどりついた。
 亀山博士の前で、中山老人はおそれるように、しかし確信をもって、言った。
「マナ識とアラヤ識の関係、それとアンマラ識は、老子道徳経の無欲有欲の妙徼(みょうきょう)に重なります」
「そうだね」
ベルグソンの直観、悟性の分化は、そのことの種的展開でしょうか」
「集団での個のありようか、時間による個々のありようか、と言えるね」
「つまり大乗仏教は、進化論の現象学と言えます」
 亀山博士は微笑んだ。
 布団に横になったまま、中山老人は少し涙ぐんだ。

 その日、薫はいつものように午前十一時過ぎに眼を覚ますと、遅い朝食をとるため一階の居間に降りて行った。児童養護施設で働いている母親はもう仕事に出かけていた。テーブルに置かれているトーストや目玉焼き。薫はそれらを無造作に口に運んだ。冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに注ぎ、それを持ってまた二階へ上がって行く。
 部屋の机の上に置かれたノートパソコンのスイッチを押し、薫は椅子に腰かけ牛乳を一口飲んだ。ディスプレイに表示されたスカイプの鉄のアカウントは退席中になっている。数カ月前から始めた鉄とのゲーム制作は昨日中断した。トレードなどで食いつないでいる鉄が監督、大学を休学している薫がシナリオライターとなって、『函のなかの少女』というアドベンチャーゲームは制作されていた。

10

 薫は統合失調症と診断されている。中山老人によるという憑依のときの自動的な語りも、統合失調症の症状である独語ととらえることはできる。
 思考を重ねた結果、薫には自らの状態は日常と意志のずれだという確信があった。しかし意志というのは、一体どこからくるのだろう?
 東京大学のキャンパスでエクスタシーになっていたとき、薫は大物主(おおものぬし)という日本神話の神を名乗り、関東大震災を起こす、と言った。東日本大震災の半年前のことだ。

「丘(きゅう)の遺志はここまで堕ちたか……」
 亀山博士は帝国大学インド哲学を専攻し博士号を得たあと、三十数回におよぶ癲狂院(てんきょういん)への入退院をくりかえした。
 薫に憑依した中山老人の話によれば、亀山博士の風貌は豊かな白鬚のモダンな老紳士だという。
 先に記した独白は、後年南方熊楠(みなかたくまぐす)とも交流があったという亀山博士が、大日本帝国軍国主義を目の当たりにしたときの呟きだ。

「忘れてるんだよ」
 これは薫が路上で倒れ救急車で病院に運ばれ、寝かせられていたベッドの上で叫んでいたとき、薫を取り押さえていた看護師の誰かが言った言葉だ。
 神だありと前後して、薫のあたまに湧いてくる記憶。さながら夢と現実の境(さかい)の出来事のようなそれは、薫を翻弄(ほんろう)する。